東洋文化の交差点、シンガポールへ

History

トマセック

シンガポールに関する歴史的な記述で最も古いものは3世紀の中国の文献における、Pu-luo-chungであるという。シュリーヴィジャヤ王国の勢力下、その後7世紀頃には漁村トマセックとして知られ、複数の航路が合流するマレー半島の先端に位置するという地理的条件も加わり、様々な国の船舶が寄港していたという。

シンガパーラ

その後、14世紀末にはサンスクリット語で「ライオンの町」を意味するシンガプラという名称が定着し、現在のシンガポールの由来となっている。

イギリスによる植民地

1819年1月、人口わずか150人のこの島に、イギリス東インド会社で書記官を務めていたイギリス人トーマス・ラッフルズが上陸を果たす。ラッフルズはシンガプラの地理的重要性に着目し、1819年2月6日、当時島を支配していたジョホール王国より商館建設の許可を取り付けた。名称を英語風のシンガポールと改め、都市化計画を推し進めた。1824年には植民地としてジョホール王国から正式に割譲がなされるとともに、オランダもイギリスによる植民地支配を認めることとなった。

イギリスによる植民地2

シンガポールを含むマレー半島では、イギリスの植民地支配下において、これらのインドや中国からの労働力を背景に経済的には発展が進んだものの、マレー人を中心とした在来住民や移民労働者による自治が認められない隷属状況が続き、20世紀に入った後には、一部知識層の間において独立の機運が高まることとなった。しかし統治者であるイギリスは、イギリスからの独立運動を行おうとする在来住民に対して投獄、拷問、さらに処刑を行うなど徹底的にこれを取り締まり、自治や言論の権利を奪われ、3級市民として扱われる悲惨な隷属状態が続くこととなった。

日本による占領

1941年12月8日に太平洋戦争が始まると、シンガポールのイギリス極東軍は山下奉文中将が率いる日本陸軍による攻撃を受けた。この攻撃は1942年2月7日に開始され、同地を守るイギリス極東軍司令官のアーサー・パーシバル中将が無条件降伏した2月15日に終わった

日本による占領2

その後日本から多くの官民が送られ、軍政は概ね大きな支障もなく進められたが、イギリスやオーストラリア、中華民国などの連合国軍の支援を受けた中国系ゲリラにより散発的なゲリラ活動が行われた。これを受け、日本軍は反日ゲリラやその支援者と目された中国系住民を指定地へ集合させ、トラックで海岸などに輸送し殺害した(

イギリスによる植民地支配

日本の敗戦後、シンガポールは再びイギリスの植民地となるが、1948年から植民地からの解放を訴える民族独立運動が活発になった。この独立運動の中心となったのが、リー・クァンユー(後のシンガポール首相)率いる人民行動党である。 1963年にマラヤ、サバ、サラワクと共にマレーシア連邦を結成し、イギリスより完全独立する。 しかし、マレーシアのマハテール首相による「マレー人優遇政策」によって、マレー系住民と中国系住民の間で衝突が起きるようになり、リー・クァンユーは中国系住民を率いてシンガポールとして、マレーシア連邦より独立を果たした。

独立後現在まで

リー・クァンユー首相は、さらに自由貿易を拡大し、海外からの観光や金融の誘致、高度教育、情報化社会に力を入れ、現在では購買力ランキング1位になるほどの経済成長、発展を遂げた。 また、海外からの人を迎えるにあたって、安全でクリーンな国をアピールするために、厳しい罰金制度、厳しい処罰制度をもうけていることでも知られている。

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